1103号室

より気楽に・より豊かになるためのご自愛記録

本当の優しさとはなんだろうか

ただの雑記です

優しさについて危機感を覚えることがある。

それは「こうした方がいい」と言っても相手がそうしないとなぜ?とモヤっとするときに。

あるいは、ランチのメニューを決めていたけど泊まりに来た人がなかなか出かけないのでメニューを変えて2人分作ったときに。相手は作らなくて大丈夫だよと言ってるのに。1人だけ作って食べることに罪悪感があった。

「なんだかんだ優しい」と言われることがあるが、それは本当に優しさなのか分からない。最初の事例は押し付けだし、二つ目の事例は自己中だと思われたくないからやっているだけだ。

 

こういうときいつも思い出す。

子供の頃、わたしは誕生日に親からホールケーキを買ってもらった。家族は一切れのケーキをそれぞれ買った。「誕生日はホールケーキを一人占めしたいでしょ?」と。

わたしはケーキは一切れで十分だった。そもそもクリームがそんなに得意ではない。ホールケーキとなると食べ切るのに何週間もかかってしまうだろう。つまりホールケーキを別に食べたくはない。

だが喜ばなくてはならない。喜ばないと「なぜ喜ばないのか」と両親の機嫌を損ねるからだ。そして「せっかくやってやってるのにあいつは可愛くないやつ」とリビングでの会話が耳に入る。つまりわたしは今後の精神を安定させるべく満面の笑みで喜びを表現しホールケーキを食べなければならない。

 

いつもこのことを思い出す。そして結局優しさとはなんだろうかと思う。ありがたいことに仕事もあって飢えを感じることもなくごはんを食べることができて、雨風をしのげる家がある。十分幸福だと言える世界での優しさはなんなんだろうか。

 

たぶん、自分がやりたいからやる。それを相手がどう受け止めるかは相手に委ねる。相手にとって必要ないことならやめる。と解釈すればいいのだろう。それか選択肢を設けるか。どちらも自分がやりたいことで。

そして相手が優しいと受け取るか勝手だと受け取るかは気にしない、求めないことも大切だろう。これくらいでいいのだろう。そもそもわたしは他人のことを過剰に気にしすぎるところがある。もっとはちゃめちゃに生きたい。

 

そんなわけでわたしの贈り物はだいたいカタログギフトになる。カタログギフトを考えた人は偉大だ。中身はともかく選択肢まみれだ。同じ思いをした人か、あるいは優しい人が作ったのだろうか。

 

考えすぎて休職にまでなってるんだから、もっと楽でいたい。心身健康であれば「まあいっか」とも思えそうなことだ。思いたい。寝ます。